『すずめの戸締まり』―勝手に深読みあれこれ
すずめの戸締まり、面白かったので忘れないうちに感想を書き留めておこうと思います。大きなネタバレを含みますのでご承知おきください。
まず、この作品の大筋のテーマは「生きることの肯定」かと思います。クライマックスのミミズを再び封じ込めるシーンでの、「一日、一時でも生きながらえたい」というような草太のセリフにこの点は凝集されていました。
序盤で死ぬ事が怖くないと言って憚らなかった鈴芽が、草太との旅を通じて生きていたい理由を見つけていく、という流れもこのテーマをそのまま表していてすごくわかりやすいです。
生きる理由を運命的な感じのボーイミーツガールに求めるのは良くも悪くも新海誠っぽいです。鈴芽が草太への感情を膨らませていく描写は若干唐突で荒削りな気もしましたが、2時間の映画ではそこまで丁寧な描写をするのは現実的に難しいのかも知れません。
ではそもそもなぜ序盤の鈴芽は死ぬのが怖くなかったのか、という理由は、回想シーンや家族構成の謎が解ける形で少しずつ明らかになっていきますが、この構成はすごく巧いと思います。
作品序盤では「死ぬのが怖くない」というセリフの意味は、単に勇敢な(無鉄砲な?)キャラクターとして軽く流していました。が、ストーリーが展開するにつれ、鈴芽という人間の根底に震災でお母さんを亡くしたことが原体験として刻まれており、鈴芽にとって生きるということは(他人よりもずっと)あやふやで危ういことだった、ということが見えてきます。
そして終盤で鈴芽が幼い自身に向かって語りかけるシーンでは、幼い鈴芽自身はお母さんを必死で探しながらも、本当はお母さんにはもう会えないと理解していた、ということが明らかになります。
ここからは僕の推測ですが、以上のことを踏まえると、鈴芽が幼いころに死者が行くという「常世の世界」に迷いこんでしまったエピソードについて、鈴芽自身が心の隅でそれを ''望んだ'' とも読めるのではないでしょうか。
さすがに明言はされていませんし、追い詰められた幼い子供の素朴な願いを「自殺願望」みたいな言葉でわかりやすくしてしまうのも違うと思いますが。
とにかくシナリオの骨子は非常に重いです。
そしてその重さは、新海誠作品らしい演出や設定によっても補強されています。
新海作品では実在する事物や事象が演出の小道具として結構扱われています。(たとえば『天気の子』ではマクドナルドでバイトしていた陽菜がハンバーガーをこっそり穂高に渡すシーンがあるが、機械的に大量生産されるファストフードとしてのマックの具体的なイメージと、陽菜の人間味ある優しさがコントラストになっている。)
今作では東日本大震災が主題として直接的に扱われることで、鈴芽のトラウマの生々しさを際立させています。
そして、そういう全体的な重さとの対称にあるのが芹澤です。ビジュアルのチャラさも絶妙だし、鈴芽と環が険悪なムードになっているところで河合奈保子の『けんかをやめて』を流すセンスは本当に(いい意味で)オワっています。彼の軽薄さ、コミカルさのおかげでこの作品はエンタメとしてのバランスを取っていると思います。
ところで、芹澤のシーンで一番印象的だったのは、震災後に荒涼としてしまった土地を見て「こっちにこんなに綺麗なところがあったなんてな」というようなことを言うシーンです。
鈴芽は震災の当事者なので芹澤の発言に対してあからさまな憤りを見せますが、芹澤自身がその発言を反省するような描写は特になく、劇中で両者の認識は平行線のままだったように思います。
このすれ違いはおそらく、日本人の中にある「東日本大震災への感情の濃淡」をそのまま鏡写しにしています。今僕は福島県に住んでいるので、ここの人々と学生時代に出会った関西の友人たちとの間に、震災についてどうしようもないほど埋めがたい認識の溝があることを痛感しています。
そして実際、この作品を観た人の中にはおそらく、芹澤の軽薄さに憤りを覚えるひとと、特に違和感は無く無意識に共感する人とがいるのではないでしょうか。当然そこには視聴者一人ひとりの個人的な震災経験が反映されているはずですし、そういう視聴者間でのある種の軋轢を引き起こすことまで計算して芹澤というキャラクターが作られているなら、新海誠は本当に天才的だと思います。
そして、震災を過去の出来事として少しずつ色褪せさせていってしまう芹澤のような私たちに警鐘を鳴らすかのように、人の記憶や想いの力が弱まった廃墟からミミズはあふれ出し続けます。とすると、この作品には裏テーマ(?)として「風化への抵抗」が描かれている、というような読み方もできるのではないかと僕は思っています。
以上、だらだらとまとまりのない感想でした。
とにかく僕は結構いろいろ考えて面白かったので、観られた方とはぜひぜひ感想を交換・共有出来たら嬉しいです。
では。
山小屋で過ごした50日(前)
今しかできないこと、の最大値を取ってみる
昨夏山小屋で過ごした日々についてあれこれ思う所があり、書き留めておきたかったのだが、いつの間にかすっかり真冬になってしまった。それでもなお、自分にとって大きな価値を持つと信じられる50日だったので、日記と写真と断片的な記憶をつなぎ合わせて、今書けるだけのことを残しておこうと思う。
山小屋バイトにはずっと興味があった。山は好きだしお金ももらえる。まとまった時間の取れる学生のうちにしかできない。共同生活や住み込みのバイトなど、普段得られない生活の「濃さ」に対する漠然とした憧れもある。大きな懸念は夏休み中の卒論の進捗がゼロになることだが、卒論のテーマを「山小屋から考える登山の大衆化」とすることで強引に解決した。この時ほど何でも扱える社会学に感謝したことは無い。コロナ禍で募集は減っていたものの、何軒か問い合わせた末に北アルプスのある小屋で8月初旬から9月下旬までの50日間、アルバイトとして働くことが決まった。
アルバイトをすることの意味
着いた当日は登山後ということでゆっくり休ませてもらい、夕食時に顔合わせを済ませ、翌日の朝食準備から仕事を始めることになった。集合時間は4時半。空が明るくなり始めてから寝る僕にとって最も大きな懸念は朝起きることだったが、結局寝坊したことは一度も無かった。仕事とは偉大なものだ。
はじめは教えてもらうことばかりで、先輩バイトや支配人のおじさんも丁寧に指導してくれる。1週間ほどは新しく知ることや小屋周辺の綺麗な景色に感動するだけの楽しい時間だった。が、少しずつ暗雲が立ち込める。
端的に言えば、仕事を覚えるのが遅く手際が悪い。エプロンを付け忘れるなど初歩的なミスで怒られたと思えば、盛り付けの手順を間違え怒られ、片付け時にやることが分からず高校生と話していてまた怒られる。ちょうど悪天候が続いたことにコロナの感染拡大が追い打ちをかけ極端にお客さんが少なくなっていたため、お金をもらって仕事をするという緊張感も足りていなかった。
見るものやることすべてが目新しかった時期が過ぎ、やるべきことが進まず他の人の役にも立たない無力感に苛まれ、周囲の優しさがますます自分の情けなさを引き立たせてしまう。まるで留学生が滞在先に慣れた頃に感じるブルーのような心境に陥っていた。
とはいえ仕事ができるようにならない限り解決しない。仕事の手順を寝る前にひとつひとつノートに書き出していき、シフト中以外でも厨房や受付周辺をうろうろして仕事を探し、といった今思えば涙ぐましい努力をしていた。
結局物覚えの悪さはひと夏で克服できるようなものでもなかったが、重要な教訓を得た。アルバイトは、怒られ慣れるためにするということだ。どうしたって覚えきれないことはある。注意力散漫なのも、そのくせ叱られるとやたら凹むのも、今に始まったことではない。怒られたくなどないが、きっと社会人になっても僕はしょうもないミスをし続け、怒られ続けるのだろう。時間や精神力は有限なので、なるべく心をすり減らさずに気持ちを切り替え次から注意すべきことを身に付けていく必要がある。その練習をする最も手っ取り早い手段がアルバイトなのだ。もうほとんどバイトをする期間は終わってしまったが、それでも自分が今までしてきたことに対し、お金ややりがいといった聞き飽きたもの以上の理由を一つ見つけられたことは、小さくない収穫だった。
山に行く理由
働いていた間、バイト仲間とよく話題にしていたことがある。「下界に戻ったらまず何をするか」「バイト代を何に使うか」そして、「なぜ山に登るのか」だ。一つめと二つ目に関しては、山小屋バイト自体が目的だった自分はあまり考えてなかったし、あまり考えないまま数カ月経ったら稼いだお金も無くなっていた。ので三つ目について少し考えてみる。
よくある答えは「景色がきれいだから」「自然に癒されるから」「登頂したときの達成感がたまらないから」などなど。僕も全面的に肯定する。でもそれだけだろうか。
山小屋で過ごして分かったのは、不便な生活はそれまでの日々を相対化してくれるということだ。インターネットはつながらないし、コンビニは無いし、夜9時過ぎに発電機を切るので電気が使えなくなるし、食べ物はやっぱり冷凍食品とレトルトに偏るし…。数えきれないくらいの不便さを否応なく受け入れて生活していると、なんだかんだそれでも生きていけることに気づく。大抵のことは少し我慢すればいいし、しばらくそれを続けていると我慢は我慢ですらなくなってくる。生活が「そういうもの」として立ち現われて来るのだ。
そういうふうに「便利だけどしばらくは無くてもなんとかなるもの」がそぎ落とされていくと、必然的に今度は自分にとっての「生きていく上で欠かせないもの」が可視化される。とりあえず僕にとっては、一人になれる時間と、周囲の人との良い関係と、おなかいっぱいご飯が食べられることだった。これが崩れると本当にストレスになるし、これさえあれば数カ月は健康に生きていけるようだ。
山という場所が都市生活の利便性と過剰性を問い直させてくれるということは、山小屋生活に限らず普段の山行でも同じだろう。テント泊山行なら特に、衣食住のすべてで分かりやすく制限がかかる。切り詰めた着替えをどうやりくりするか考え、軽さと栄養とおいしさのバランスを取るために一食一食工夫を凝らす。暖かく快適に眠れることは行動中のコンディションに直結するが、同時にテントやシュラフ等の寝具類は一番重くてかさばるので、例年の気温と照らし合わせて必要最小限の装備を慎重に計算する。そうやって選んだものをすべてザックに詰め込んだ時、なんとも言えない充足感がある。
何年山歩きをしていても風呂に入れないのは苦痛だ。ご飯のレパートリーは当然限られる。テントはもちろん家のベッドより寝心地が悪い。それでも山をやめられないのは、必要なものはすべて自分で持ってどこにでも行け、自分の力で生きていける、という感覚が何にも代えがたいからだ。一言でいえばそれは自由なのだろう。
必要最小限を背負って山に行く。一人でも良いし、友達とでも良い。一人なら一人の時間が自分に欠かせないことを再確認できるし、友達となら気が合う他者との関わりが自分をどれほど形作ってきたかを改めてかみしめられる。そういうふうに、本当に必要なものは何なのかを考え直すために、僕は山に登るのだ。(続く)
就活失敗記―立派でつまらない歯車になるために
就職活動がようやく一区切りつき、いろいろと思うところがあるので、忘れないうちに書き残しておこうと思う。願わくば、巷に溢れる就活ノウハウや成功談よりは価値のあるものにしたい。
端的に結論から言えば、失敗寄りの耐え。
一応志望業界の中堅から内定をもらい、大手の最終結果を待ってる状態だけど、ここまでに25社ほど続けて落ち、まあまあ心も荒んだ。
なんでこうなったか。時系列に整理してみたい。
①スタート:年末ごろ
そもそも始めたのはだいぶ遅い方だった。
インターンなんかに張り切って参加しちゃってる人たちを結構冷ややかに見ていたし、「あなたを動物に例えると…」みたいなばかばかしい質問に大真面目に答えなきゃいけないと思うとうんざりした。「自己分析」なんて言葉も自分探しみたいで恥ずかしかったし、漠然と就活文化そのものを馬鹿にしていた。
とはいえ就職はしなければならない。
趣味を続けるために必要だから仕事をするのだ、と自分を納得させ、「高給 ホワイト 業界」とか調べてみると、高確率で出てくるところがある。
化学だ。
高い技術が必要だから企業ごとに独自の優位性があるし、ものづくりの川上で顧客が多岐に渡るので安定している、人も穏やか、…らしい。理科の中では一番苦手だったが、まあ事務系なので何とかなるだろうと思い、化学を中心に素材業界を見始める。
インターンの日程もいくつか調べたけど、めんどくさくて結局年内は何もせず、マイナビを眺めて「世の中にはいろんな会社があって面白いなー」くらいに思っていた。
②インターン:2月ごろ
1月にようやく動き出し、友人にES見てもらいながら何社か1dayインターンに応募してみる。大した志望動機もなかったしWEBテストも初めてだったが、誰でも知ってる大手企業がいくつか通ってしまう。あれ、意外と就活ちょろくね…?w
グループワークというのはしてみると結構「質の高低」が分かってしまうもので、有名企業ほど、「ちゃんと話が通じる」学生が多かったように感じた。僕の大手志向の原点はここだったと思う。
冷静に考えればインターンなんてのは企業が優秀そうな学生に自社を売り込むためのある種のブランディングなので、ペラペラの志望動機でもとりあえず通してくれるのだろうが当時はそこまでは気づかず、とにかく僕の中ではどんどん根拠のない自己効力感が補強されていった。
③本格的に応募開始:3月
業界地図を買ったのはこの少し前くらいだった。カラフルに業界ごとの有力企業の情報が華々しくまとめてあり、インターンでいい気分になっていた僕はせっかくなのでここに載っているような大手を上から攻めまくろうと考えた。
一応難関国立大だし、体育会での幹部経験も留学経験もある。まあどれかは引っかかるだろう。
化学を中心に非鉄、ガラス、繊維、製紙など素材業界のトップ~準大手企業をとりあえず15社くらい出した。通過率は7割5分くらい。正直余裕だと思った。
④面接開始
4月になると本格的な面接が始まってくる。ここで少しずつ現実に気づき始める。
まず緊張に弱い。
言いたいことはなんとなくはあるのにそれが論理的な言葉としてパッと出てこない。これまでの人生でコミュ力が特段低いと思ったことはなかったが、気心の知れた仲間とわいわい話すのと、面接という場で自分をアピールすることの絶望的な隔たりを感じ始める。
とはいえまだ駒もある。減ってきたら出し足せばいいんだし、落ちる企業があれば次に進む企業もあるのだから、最終的には第一志望群のどれかには行けるだろう。
⑤中盤~行き詰まり
面接に慣れてきて、1次を無事突破した企業の2次面接が5月ごろから始まる。緊張には確実に強くなってきていたし、勝機はあるはずだった。
が、通らない。
上手く答えられたと思った面接が何回か続けてあっさり落ちると、なんとなく正解だと思っていたものが揺らぎ始め、目指すべきものが分からなくなる。
自信たっぷりにいけばいいのか?それだと独善的な人間に思われるから謙虚さを見せた方が良いのか?たくさん用意したはずのガクチカのどれを強調するのがいいのか?そもそも自分のガクチカは本当にアピールの材料になっているのか?にこやかに「すごいですね!」なんて言いながら落としてくる面接官は何を見ていたのだ?志望動機の「浅い/深い」って何をもって測るんだ?
企業ごとに採用基準は違うので、もちろん正解は無い。
それでも自分なりに「こういうところをアピールすれば大体ウケるだろう」と思っていたものが崩れると、少なからず精神的に追い詰められていく。
気づけば持ち駒は減り、追加で出せる大手企業も限られてきていた。
自分が就活に失敗しかけている、という現実に向き合うのは本当に疲れた。
朝起きるのがますますしんどくなり、日中も面接以外の時間に何をしていたかよく覚えていない。メールだけは10分に1回確認するような、何の生産性もない一日一日が過ぎていき、深夜にだけ思い出したかのように追加のESを書く。
が、たいして興味もない中堅どころは中身の無い志望動機しか書けないし、面接で伝えられる熱意も無いので、あっさり落ちていく。
四季報の内定者出身大学を見て、ここくらいなら自分なら入れる(めちゃくちゃ失礼な話だけど)、と思っていた企業に落ちると、本当に自分が無価値に思えてくる。ただただ惨めだった。
⑥終盤
内定が出たのは本当に偶然の産物だった。
同じくらいの中堅もすでにいくつも落ちていたので、とにかく持ち駒を増やしたい一心で受けたうちのひとつだった。なんとなくで臨んだ1次面接だったが、話したおじさん数人の雰囲気が本当に良く、風通しのいい、若手を可愛がってくれそうな会社だと思えた。
向こうも僕をずいぶんと高く買ってくれたようで、「1週間以内には連絡したいと思います」と言っていた通過連絡はその日の夕方に来た。
同時期に、2つだけ残っていた最大手の選考も進んでおり、それが精神的な支柱になってなんとか腐らずに済んだ。
3日連続で最終面接(しかも一つは対面なので新幹線で移動)という慌ただしいスケジュールの中で、深く考える時間もなく山場は終わり、次の日にあっけなく内定は出た。
これ以上続ける気力も残っていないので選考中の他企業には辞退連絡を入れ、これにて就職活動はおしまい。
四季報の内定先のページや転職者向けサイトでポジティブな情報を漁り、これでよかったんだと言える根拠を必死でかき集めているのが惨めな惨めな現在である。
さて。
結局なぜ就活が上手くいかなかったのかは分からない部分も多いが、振り返ると見えてくることもいくつかある。
まず大手志向が強すぎた。
これまでの自分を振り返ってみると、自分自身よりは所属する組織にプライドを持ってきた。特に、明らかな天才がたくさん周りにいた中高時代は自尊心が満たされていた。優秀な人に囲まれていると自分もなんとなくデキる人間に思えてくるし、なんなら優秀な人と仕事するために大学受験の負けを就活で取り返してやる、くらいに思っていた。
裏を返すと自分の能力に自信が無いというだけだが、まあそれはどうしようもない。
どうせつまらない歯車のひとつにしかなれないなら、せめて立派な機械の歯車になりたかった。
そしてチャンスはあったはずだが、掴むには準備が足りなかった。
思えば結構いろんな人からインターンの重要性やらWEBテストの勉強の必要性やらを聞かされていた気がするが、特に何の根拠もない「なんとかなるだろう!」で流していた。突出して優秀なら実際になんとかなるのだろうが、自分はそうではないということを、もっと早く認めなければならなかった。
失敗経験を失敗経験として持ち続けることは精神的負担が大きいので、大抵の人は「上手くいかないこともあったけど、まあ振り返ってみるとこれで良かったよね」などとつまらない美談にしてしまうし、それが上手く生きるコツなんだとも思う。
社会人になればきっと当たり前のように楽しいことも嫌なこともあり、就活の失敗など日々の忙しさの中に埋没していくのだろう。
だからこそせめてその前に、失敗を失敗として記録し、惨めさを明確な形を持って残そうとわざわざブログまで始めてこの文章を書いた。
いつかこれを読んでもなお、この会社で良かったと胸を張って言えるまでになればと思う。